〜序章1〜
最近の宇宙論では、イギリス人のアラン・ランディックによって、『真空とは何も存在しない状態なのではなく、実は非常に豊かな海のようなもので、そこでは耐えず、粒子と素粒子が生まれては消えている。』ということが明らかにされました。
しかし、これは仏教を受け入れる日本人にとっては、とくに目新しい考え方とはうつらない事でしょう。なぜなら、かつてお釈迦様はその教えの基本として、この世界そのものは『空』であるという考え方を当たり前のこととして語っていました。不思議なことに、我々日本人はこの考え方をすんなりと受け入れ、すでに今も日常生活の中でさえ、『結局この世界は、一切は空』などといってはばかりません。もしかすると、日本人とはすでに当たり前のこととして、この宇宙は空という考え方を受け入れてしまっている世界で唯一の民族といえるかもしれません。
〜序章2〜
かつてお釈迦様は言いました。『本来、生命はすべて実態をもたない。いっさいは空である。しかし、この空は虚無≠ナはない。この宇宙の一切を内包する状態こそ『空』と呼べるものなのだ。』 こうして考えてみると、アランランディックによって最近ようやく言われ始めたこの宇宙の実像を、お釈迦様は2500年も昔にかたり、我々日本人が常識としてそれを受け入れてしまっている現実をようやく、西洋の科学者たちが気がついてきたという感さえあります。人類の科学は、ここに到着するまでに、実に長くの歳月を必要としました。
〜序章3〜
東洋、とくに日本では昔から仏教が広がっているので『宇宙の本質は空』という発想があります。しかし、西洋にはもともとそういった発想自体がありません。意外に思われるかもしれませんが、西洋人というのはまず、自分があり、そして人間のために自然や宇宙が存在すると考えるのが普通なのです。我々東洋人は、『人間は宇宙や自然の一部であり、その本質にある神に生かされている』と感じるのはみな、お釈迦様の思想がアジアに広がったおかげなのです。ですから、彼ら西洋の科学者達は、こうして物質世界の法則を丹念に解き明かすことでようやく近年、この宇宙の本質は空そのものだという発想に辿り着いたのでした。
〜序章4〜
ニュートンが引力を発見して以来、300年。アインシュタインが時空の歪みを発見して以来、100年。急速に発展を進める現代科学は最近になってようやく、仏教の基本へと辿り着いたといえます。そしてその後60年、ビックバン、4つの力、平行世界と、現代の物理学者は、まるでブッタの教えをなぞることが科学の進歩と見間違えるばかりの内容を我々に示しています。
さらに最近、はやりの紐理論はこの宇宙が、『共鳴し合う多様な振動の集まり』であることを明かし、さらにエム理論、ブレイン理論においてはこの宇宙は低い次元から高い次元へと、集約される一種のピラミッドであるということを明らかにしました
これはみな仏教の基本的な考え方です。
〜序章5〜
そして、今、科学がいきついた場とは、実はこの宇宙とは、結局認知不能な未知の次元からの力によって動かされ、実際に人間がわかっているのはその全体のわずか3パーセントにすぎないということです。実に97パーセントを支配し動かす、未知の次元からの力を物理学者達は『見えない真空からの力』、ダークマスターと呼び頭をたれます。この現実を見ると現代とは実はアリストテレスの時代とさほど変わっていないのかも知れません。
アインシュタインは言いました。『私達がわからないのは、人間はなぜ全てを理解することができない存在であるのかということだ』と。こうした人類の姿をブッタは『無明』と呼びました。結局、ビックバン以前の『言葉にならない空の状況』を言語化することは不可能なのです。宇宙とは理解するものではなく『悟る』ものということです。
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〜序章6〜
では、『宇宙を悟る』とはいったいどういうことでしょう。それは、見えない真空の中に存在、いや実在しこの宇宙のすべてを動かす、未知の力とひとつになることに他なりません。お釈迦様はこの力のことをダークマスター呼ばず、仏≠ニ呼びました。
宇宙の根底には言葉にすることも、認識することもできないがこの世界全体を統一 し動かす意志が存在する。その意思のことを仏≠サしてその仏が、この宇宙を成り立たせる法則となった状態が法=Aそしてその法をこの地上において実践するブッタとその弟子たちの集まりを、僧(サンガ)と呼びました。つまり、ブッタとその弟子達とはこの宇宙の根源にある仏の意志を、実践する者というわけです。『仏法僧は三身一体』という言葉は、ここから来ています。
〜序章7〜
では、『人間の五感を越えた次元にあって、この宇宙を動かしている意志』とは、いったいどういう性質のものなのでしょう。私はよく、この宇宙の本質を自然に生まれた認識作用≠ニいう言葉(喩え)であらわします。結局、『神とは何か』を最もわかりやすい言葉で言うと、『自分自身とは何かを考え続けている宇宙自身のこと』といえます。人間の本質にある、『自分とは何かを探求する性質』、それがそのまま神の本質的性質で、結局現代の科学者達が探求している宇宙とは、自分の意識の構造に他なりません。神とは自分を人間の姿に変え、その視点から最もわかりやすい形の宇宙をつくり、ひとりひとりの人間の視点をとおし、自己を探求しているのです。
〜序章8〜
一見すると我々の外に広がるこの大宇宙、地球、惑星、銀河、これらは実はみなあなたの心の中にあるものなのです。あなたの意識の奥底にあるものを形にすると、このように見えるのです。そしてこの人間の意識をミクロに探求していけば『原子やクォーク』、そしてマクロに探求していくと『時空とその外側とは何か』というわけです。そしてここに、無限の平行次元が重なり、すべてが認知不能な仏の力によって統一されているのです。
人間が宇宙を探求するとは、つまり自分自身の構造を探求しているということなのです。『神は人間を自分に似せて作った』というよりも、人間とは自己探求する宇宙、つまり神そのものなのです。
〜序章9〜
一般の学者達が『宇宙を理解する』とは、この世界を成り立たせている法則を発見、理解し言語化することです。それは原子と素粒子の関係であったり、物質や質量を数式化することにほかなりません。しかし、『宇宙を悟る』とは、この世界を数式化することではなく、この宇宙の次元を越えた意志そのものと一体となることなのです。
ブッタとは、この世に存在し『この仏と一体となる悟りをひらくことに成功した人』に他なりません。ブッタとなるとこの時空の中にひとりの人間として身を置きながらも同時に、その精神は『次元を越えた仏=xとしてこの世界のすべてを見渡すことができます。そして、その視点からこの宇宙の実像をすべての人々に語ったのが、仏教というわけです。アインシュタインもホーキングももはやこの視点と発想には追いつきません。
〜序章10〜
しかし、この宇宙を語りきる言葉はこの世には存在しません。その為、ブッタは様々な喩えと方便を使い、我々に少しずつこの宇宙の実体を悟らせようとするのです。宇宙の根源である仏は自分をひとりの人間の姿とし、己自身の真の姿を悟るために、この宇宙を創造しました。つまり、仏が人間として生まれ、宇宙を探求し、悟りをひらくとは、神が再び神に戻るという単純な行為なのです。では、ブッタはどのような方便を使いその悟りをこの世に広めたのでしょう。
〜序章11〜
仏教とは一般にヨーガで分類した場合、ラジャ・ヨガ、バクティ・ヨガ、そしてカルマ・ヨガの3つをあわせた教え方の結晶といわれています。
ラジャ・ヨガとは論理によって、この宇宙を解き明かしていこうとする行為に他なりません。
そしてバクティ・ヨガとは、その論理を越えた存在に対して完全に自己を帰依させ一体となる行為です。
さらにカルマ・ヨガとは、この超越者に対して己の背負った業(カルマ)を越え帰依し、その教えを何度生まれ変わっても、転生した世界に広めていくことをいいます。
つまり、仏教とははじめから時空を越えた視点から語られているものなのです。
〜序章12〜
釈迦は、転生輪廻を越えてこの時空を越えた仏が顕在化した姿であるブッタに帰依し、この人間界に仏の言葉を広めていくことが唯一無二の悟りへの道であると語りました。『悟り』とは理屈ではなく、体得していくものという考え方がその根底にあります。
ブッダの言葉を人に語ることによって、その人自身が仏の言葉と一体となっていくのです。そして最後に、その人自身が仏となります。これを『即身成仏』といいます。神とは『自分自身とは何かを考えつづけている宇宙自身のこと』です。その宇宙に対して、ブッタはその答えを語っているのです。そう考えてみると『宇宙とはその本質にある、仏が人間になった仏から自分とは何かを聞くもの』ということができます。探求するものと教えるものとは同じひとつの仏なのです。
アインシュタインは、その死期間近な頃、『私は次に生まれ変わったとしたなら、仏教僧になりたい』と語ったといいますが、彼の意識の根底にはこうした宇宙の本質にいる仏に答えようとする意志があったのかも知れません。
〜序章13〜
繰り返しますが結局のところ神とは、『自分自身とは何かを考えつづけている宇宙自身のこと』といえます。そしてそれが、あなた自身のことなのです。あなたはまだ、教えを聞く側の仏・(小乗)で、ブッタとその弟子達とは語る側の仏・(大乗)だといえます。こうして考えてみると、神とは実は簡単なものなのです。しかし、人間の姿となった神であるあなたは『本来の目的である自己探求』を忘れ、外の世界に映しだされた欲望に惹かれ社会を乱してきました。
瞑想やヨーガとはそうした本来の人間の精神機能を、再びもとの状態に戻す為に地上に広がったトレーニング方法なのです。
今、現代文明は大きな岐路に立たされ、本来の目的に戻るか否かを選択する時が来ているのです。 |